さておき、息子とアスペルガー

アスペルガーの息子“ぽん太”にまつわる日々のことを綴ろうと思います

「発達障害」と診断されることは不幸なのか?

視力が悪い人は眼鏡が必要なように、きちんと「障害」を把握すれば必要な措置を取れる

最近、私の周りで「発達障害」が増加しています。

正確には「らしき人」が増加している、

ということなのですが。

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脳の機能がマイノリティ

私自身は「発達障害」という言葉は

あまり好きじゃありません。

「発達のズレ」くらいのほうがしっくりきます。

だからと言って「発達障害」を否定するつもりはないし

きちんと診断を受けることがまず重要だと思います。

 

私が今までに勉強(?)したところによると、

発達障害というのは

「脳の機能が大多数の人と若干違う」

「大多数の人と違う部分の脳が反応する」。

つまり「脳の機能がマイノリティ」

みたいな状態のことだと理解しています。

 

脳の機能が「問題」なので、

根本的には、彼らの考え方を変えることはできません。

そこが普通の人(大多数の定型の人)との違いですが

振る舞いは学習によって、ある程度変えられます。

つまり「こういう場合にはこのように振る舞う」と、

マジョリティの社会ルールを学習するのです。

そうなってくると、

「定型(マジョリティ)」と「発達障害」の差は、

一体何なんだろうか…と思えてくるのですが…。

 

(↑友人から教えてもらった本。いろいろ読んだうちの一つ。この本はとても優しい気持ちになれました。別の友人に貸したら「この本にもっと早く出会いたかった」と言われました)

 

アスペルガーはかわいそうなのか

こういった発達障害に関する情報について

私の父親(元教員)ですら理解していません。

「ポン太はアスペルガーだから」

などと私が言うと、

「決めつけなくてもいいだろ、かわいそうに」

みたいなことを言ったりするのです。

それが私にとっては結構傷つくんですよね…

 

アスペルガーはかわいそうなのか?

そうじゃないほうが良いってこと???と。

息子の存在を否定された気持ちになります。

 

私の父にはいつそれを言おうかと思いつつ、

会う機会も少ないので、言えずにいます。

父にも、発達障害に対して、偏見というか、

否定したい気持ちがあるというのがよく分かる…。

 

一見「普通の人」なので誰からも配慮してもらえない

たしかに最近息子は

だいぶ「普通」に感じられる面が増えて、

私自身、もしかして違うのでは?

と思ったりしてしまう・・・

 

違うなら違うでも全然構わないのです。

ただ、できるだけ適切な接し方をしたいだけ。

 

見えない「障害」の辛さはここにあります。

一目見ただけでは、誰からも配慮してもらえない。

普通の人ができることができなくて、

ワガママ、嫌な奴、やる気がない等と思われがち。

 

努力しても変えられないことや

大多数の人と捉え方が根本的に違うことを

批判・否定・非難され続けられる世界…

それは生きているのが辛くなる世界だと思います。

 

そういえば、

性同一性障害精神疾患ではないと

WHOが最近(2019年)判断を示したらしいですね。

当然、大多数の人と違うことで

生きづらさは出てくるだろうけど、その原因は、

本人の意志や努力とは関係ない、生来の物理的特徴。

生きづらさを取り除くケアが必要というのは

発達障害とも重なる部分があるなあと思います。

 

マイノリティを排除した世界に暮らしたいですか?

いつの時代も、どこに暮らしていても

おそらくマイノリティは生きづらい。

でも「マイノリティだから悪」じゃないし、

「マイノリティだから不幸」ではない。絶対に。

 

ただ、マイノリティにとって

当然、マジョリティの枠組みが苦痛なこともある。

そこは別の枠組みを用意したり、

接し方を考えるべきなのです。

なぜか。

なぜ、マイノリティへの配慮をすべきなのか。

 

1つ目。

マイノリティを排除した世界を考えてみてください。

全員同じ・・・そんな世界息苦しくないですか?

今の日本の息苦しさの原因でもありますね。

同調圧力はさまざまな社会問題を引き起こしています。

いろいろな人が暮らす社会のほうが自然だし、

結局それが暮らしやすい社会なんだと思います。

 

2つ目。

自分もマイノリティになる可能性は十分ある。

事故で車椅子で暮らすことになるかもしれないし、

家族が難病を発症するかもしれない。

マイノリティの居心地を良くすることは

自分に直結するメリットになるかもしれないのです。

 

だから、マイノリティを排除する方向ではなく、

マイノリティにも心地よく暮らせるケアを

私たちが積極的に考えていくべきなんだと

実感するようになりました。

 

試練であるには違いないけれど

選択できるマイノリティならともかく、

選ぶ余地のないマイノリティになりたいかと言えば

私自身はなりたくないです。

逃れられるなら逃れたい。

 

そう思う一方で、

自分自身も心身のコンプレックスはあるし、

自分の置かれた状況を恨むこともあります。

だとすると、

程度の差こそあれ、

毎日ハッピーではないのは誰しも同じかも。

ある程度のレベル以上の暮らしができれば、

ハッピーかどうかは考え方次第なのかも。

ただ、その「ある程度のレベル以上」の

状況を準備することが重要なんだと思います。

それがフェアであることだし、

最終的には自分にとってもメリットになる。

 


「生まれてこなければ良かった」とか

「生きてるのしんどい」とか・・・

本意じゃないにせよ、6歳の子供が言う。

 

平和な時代ならではの発言だと思う一方で

何かしら、大人ができることがある。

考えずにはいられません。